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  • 執筆者の写真hypnoeriko

【日常】”ドア”の存在 ~痛ましい事件に思うこと~

更新日:2022年7月31日

先日、母親の交際相手から熱湯をかけられ亡くなった3歳の男の子の報道を見聞きして、またこんな痛ましいことが起きてしまった・・・と、思わずにはいられませんでした。

子どもへの虐待関連の事件を見聞きしたあとはどうやっても心が重くなります。

どうしてそこまで?

なぜ回避できなかったんだろう?

怖かっただろうなぁ、痛かっただろうなぁ、、、、

いろんな感情や想像が一気に溢れてくるからだと思います。


画像の中の男の子は、人懐っこい大きな黒い瞳で、撮っている人を真正面から見ています。向かい側にいる撮影者を全面的に信頼しているような印象です。

あれほど人懐っこそうで無邪気な子をそこまで追い詰めようとする加害者の心理はどこから来ているんだろう?と、つい掘り下げたくなります。












男の子についていろんなことを想像してみました。

大人の想像ではなく、子ども目線の想像です。

3歳児ですから身長は1メートルもありません、体重も15kgあるかないか。

小さくて手足も短い。

皮膚だってまだできあがっていません、薄くて、繊細で、これからしっかりしていく その途中です。

ただ、心や知恵は外からの刺激や情報をスポンジのようにどんどん吸収していてほぼ大人並みの機能を持っています。

そんな3歳児のイメージに意識を集中させると、”ドア”のイメージが浮かびました。


家にあるドアには部屋や空間を分けるドア、お風呂場のドア、トイレのドアがあります。

そして玄関のドア、勝手口のドア、、、わたし達は一日に何度も開け閉めをしますね。


ドア自体はそこにあるだけ、ドアそのものに善悪はありません。

通常はドアというと、自分達の生活空間と外を分けてくれる安全なイメージです。

防犯的、防音的、防災的に、そして環境を保持するためにもドアは住居になくてはならない存在です。

でも、虐待を日常的に受けている子ども達にすると、ドアは”分け隔てられた壁”です。

とっても大きな大きな壁、そしてその内側の世界が全て。

ましてや3歳児前後の子からすると、開けるには身長も力も足りないかもしれない。

誰かに開けてもらうしかないドア・・・。


あのドアが開いたら大好きなお母さんが帰ってくるということ、

あのドアが開いたらお出かけするということ、

そして

あのドアが閉まったら外には出られないということ、

子ども達の心持ちは、一緒に過ごす人の感情や行動に揺さぶられるのです。


まだ自分では開けられないドア、

あの男の子はそのドアを一人で開けることも、誰かに開けられることもなく亡くなってしまいました。


虐待を受けている子どもを救うドアは、どこにあるんだろう?

誰が開けるんだろうか?


行政や児童相談所の担当者ばかりがそのドアを開ける役割ではないと思います。

地域に住む一般のわたし達にもそのドアがどこにあるのか気づくことはできます。

直接開けるのが難しいようなら、そのドアを開けてほしいと専門の人にお願いすることは可能です。

シンプルだけど、行動することから始めるしかないと思います。

声や音を察知することはそのドアに近づいているサインです。

それは、わたし達の誰もがドアを見つけられる心の耳、心の目を持っているということでもあります。自分の感覚を信じていいのだと思います。


耳を塞がず、目をそむけず、そのドアの向こうにある日常を察知し 行動する社会にしたいですね。












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